Strategy Paper #002|正木総合研究所
韓国のコンテンツ産業政策は、日本が追うべき成功モデルなのか。エンタメ産業だけを国家政策でブーストするのではなく、文化が自然に生まれる社会そのものを国家戦略として考える。
前稿「『心の自由港』としての日本」では、日本のエンターテインメント産業をどう成長させるか、という問いそのものを疑った。
国家がエンターテインメント産業を成長させるのではない。
人間が安心して暮らし、自由に表現し、誰かが勝手に何かを作り始めることのできる環境を守る。その結果として、文化が生まれ、作品が生まれ、産業が生まれる。
そう考えるならば、現在の日本のエンターテインメント政策が参考にしがちな「韓国モデル」についても、改めて考え直す必要がある。
韓国のコンテンツ政策は、本当に日本が追いかけるべき成功モデルなのだろうか。
1.クールコリアという「成功」
韓国のコンテンツ産業政策が大きな成果を上げてきたこと自体を否定する必要はない。
K-POP、韓国ドラマ、映画、ゲーム、ウェブトゥーン。
韓国発のコンテンツは世界各地へ浸透した。
その背景には民間企業やクリエイターの努力だけでなく、政府による政策金融、人材育成、海外展開支援、制作支援など、長年にわたる産業政策が存在する。
産業政策として見れば、これは非常に興味深い成功例である。
だからこそ、日本でもしばしば、
「韓国は国家戦略としてコンテンツを育成した」
「日本ももっと国が支援すべきだ」
という議論が出てくる。
しかし、ここで一つ問いを置きたい。
そもそも何をもって「成功」と呼んでいるのだろうか。
コンテンツ輸出額なのか。
世界市場でのシェアなのか。
K-POPのランキングなのか。
映像作品の視聴時間なのか。
それらが増えれば、その国のエンターテインメント政策は成功したと言えるのだろうか。
2.エンタメ産業だけを見れば、社会を見失う
韓国は世界有数のコンテンツ輸出国となった。
一方で韓国社会は、少子化、若者の雇用、住宅、教育競争、将来不安など、極めて重い社会問題を抱えている。
もちろん、これらの問題をK-POPやコンテンツ政策の責任にすることはできない。
ここで言いたいのは因果関係ではない。
むしろ逆である。
コンテンツ産業が世界的に成功することと、その社会で人間が豊かに生きられることは、まったく同じではない。
この事実を、日本のエンターテインメント政策を考える側は重く受け止める必要がある。
エンターテインメント産業だけを切り出して韓国をベンチマークすれば、
「韓国はここまで政府がやっている」
「日本も同じくらい予算を付けるべきだ」
「海外展開の司令塔を作るべきだ」
という議論になる。
しかし、国全体を見れば、違う景色が見える。
文化を作るのは人間である。
作品を楽しむのも人間である。
そして次の文化を作るのは、今を生きる子どもたちである。
その人間が疲弊し、次世代が減り、未来への希望が失われていく社会で、コンテンツ産業だけを国家政策でブーストし続けることに、どれほど持続可能性があるのだろうか。
3.因果関係を逆にする
従来のコンテンツ産業政策には、暗黙の因果関係がある。
国家がコンテンツ産業へ資源を投入する。
↓
コンテンツ産業が成長する。
↓
輸出・雇用・所得が増える。
↓
国が豊かになる。
もちろん、この経路そのものが間違っているわけではない。
しかし、文化というものを考えた場合、もっと根本的な因果関係がある。
平和である。
↓
人々が安心して暮らせる。
↓
子どもが生まれ育つ。
↓
人々に所得と時間と心の余裕がある。
↓
多様な表現や遊びが生まれる。
↓
その一部が作品になり、コミュニティになり、産業になる。
こちらの因果関係の方が、はるかに長い。
そして、おそらくはるかに重要である。
日本の漫画、アニメ、ゲーム、玩具、同人文化などの巨大な文化圏も、ある日政府が「重点産業」と指定して作ったものではない。
戦後の長い平和。
人口の増加。
経済成長。
中間層の形成。
子どもの多さ。
自由時間。
出版・放送・玩具・ゲームセンター・家庭用ゲーム機などの民間市場。
そして、かなり奇妙なものまで許容する文化的寛容性。
そうした膨大な条件の上に、結果として現在の日本のエンターテインメント産業が成立している。
4.国家は船を作るな、港を守れ
ここから導かれる国家の役割は、かなり違ったものになる。
国家が「次に世界で売れる日本コンテンツ」を選ぶ必要はない。
アニメなのか、ゲームなのか、VTuberなのか、マンガなのかを決める必要もない。
2035年に何が「エンターテインメント」と呼ばれているかを予測する必要さえない。
国家がやるべきなのは、
船を作ることではなく、港を守ることである。
その港には、少なくとも次の条件が必要だ。
戦争にならないこと。
国土と生活インフラが守られていること。
子どもを持つことが過度な経済的リスクにならないこと。
若い世代が未来に希望を持てること。
国民に十分な可処分所得があること。
同時に、可処分時間があること。
さらに、何かを楽しんだり作ったりするだけの「可処分マインド」があること。
表現の自由があること。
異端や悪趣味や失敗が一定程度許容されること。
そして、
誠実に創作やモノづくりをしている人間に、正当な価値が還元されること。
これらが揃っていれば、国家が「コンテンツ」を作らなくても、人間は勝手に何かを作り始める。
それこそが文化の強さなのではないか。
5.韓国から学ぶべきことはある
だからといって、韓国の政策から何も学ぶべきではないという話でもない。
むしろ学ぶべきものは多い。
海外流通の整備。
翻訳。
契約実務。
海賊版対策。
国際的な権利処理。
海外市場情報へのアクセス。
中小事業者や個人クリエイターが世界へ出る際の障壁除去。
こうしたものは、国家が介入する合理性が比較的高い。
なぜならこれは、
「何を作るか」を国家が決める政策ではなく、「作った人間が自由に世界へ出ることを邪魔している摩擦」を取り除く政策
だからである。
この二つは似ているようで、思想がまったく違う。
国家が船を選び、船を作り、目的地まで決めるのではない。
港を整備し、海賊を取り締まり、航路情報を提供する。
そして、
どこへ向かうかは船に任せる。
その程度の距離感が、文化に対する国家の適切な位置なのではないか。
6.「20兆円」という目標への違和感
日本政府は、日本発コンテンツの海外市場規模を2033年までに20兆円とする目標を掲げている。
数字そのものを否定するつもりはない。
しかし、数字を国家目標として掲げた瞬間、政策には独特の力学が働く。
海外売上を増やせそうなジャンル。
既に実績のある企業。
説明しやすいプロジェクト。
KPIを設定しやすい施策。
行政として失敗を説明しやすい案件。
そうしたものへ資源が集まりやすくなる。
一方で、本当に重要なものほど測定しにくい。
15歳の少年が、誰にも評価されない漫画を描いていること。
会社員が休日に同人ゲームを作っていること。
売れるかどうか分からない奇妙な作品を出版社が世に出すこと。
数百人しか知らないコミュニティの中から新しい表現が生まれること。
そうした活動の現在価値を、行政はほとんど測定できない。
しかし、30年後の文化を作るのは、むしろこちらかもしれない。
7.測れるものを政策化すると、測れないものが消える
これは行政担当者個人の能力や善意の問題ではない。
構造の問題である。
政策には説明責任がある。
予算には根拠が必要である。
施策にはKPIが求められる。
だから必然的に、
予算執行額。
採択件数。
海外売上。
輸出額。
イベント参加者数。
支援企業数。
といった測定可能なものが政策の中心になる。
しかし、
「文化が自然発生する土壌がどれほど豊かか」
という最も重要なものは、ほとんど測れない。
ここに文化政策の根源的なパラドックスがある。
国家が文化を成長させようとして制度を精緻化するほど、測定可能な活動へ資源が集中し、本来文化を生み出していた測定不能な余白を侵食する可能性がある。
善意の産業政策が、長期的には文化の土壌を痩せさせる。
その可能性を、私たちはもっと警戒すべきである。
8.日本の競争相手はK-Contentではない
そう考えると、日本の競争相手も変わる。
K-POPではない。
韓国ドラマでもない。
Hollywoodでもない。
Netflixでもない。
日本が競争すべきなのは、
「世界で最も人間の心と創造性が自由でいられる場所」を、どの社会が提供できるか
という競争である。
世界が不安定化するほど、この価値は高くなる。
戦争。
政治的分断。
監視。
検閲。
宗教的・政治的制約。
経済的不安。
過度な競争。
人間の心へのアクセスを巡るアルゴリズム競争。
そうしたものが強まる世界の中で、日本だけは比較的安全で、自由で、奇妙なものまで存在でき、人々が安心して自分の好きなものを楽しめる。
そして世界中の人間がそこへ参加できる。
そんな場所を維持できれば、日本は国家が「次のヒット」を当てなくても、極めて強いポジションを取れるのではないか。
9.だから、クールコリアを追ってはいけない
韓国のコンテンツ政策は、韓国が置かれた歴史的・経済的条件の中で生まれた戦略である。
その成果から学ぶことは多い。
しかし、それを日本の国家戦略のベンチマークにしてはいけない。
日本には日本が長い時間をかけ、半ば偶然に作ってきた資産がある。
それは特定のIPでも、アニメ制作技術でも、マンガの出版システムでもない。
もっと上位にある。
人間が勝手に何かを好きになり、勝手に何かを作り、それを他人がかなり寛容に許容してきた社会そのもの。
この資産を守ることの方が、コンテンツ産業へ数千億円を投入することより、はるかに重要かもしれない。
結論
K-POPに勝とうとした瞬間、日本は負け始める。
日本が守るべきものは、世界市場へ売るべき「日本コンテンツ」ではない。
名もない誰かが、誰にも頼まれず、何かを作り始めることのできる社会である。
国家が次のヒット作品を選ぶ必要はない。
2035年に何がエンターテインメントと呼ばれているのかを予測する必要さえない。
平和を守る。
子どもが生まれ育つ社会を作る。
若者が未来に希望を持てるようにする。
人々の可処分所得、可処分時間、可処分マインドを増やす。
表現の自由を守る。
そして、誠実に創作とモノづくりをする人間に、正当な価値が還元される仕組みを守る。
そこまでやれば、あとは人間に任せればいい。
人間は、余裕さえあれば勝手に遊ぶ。
勝手に作る。
勝手に集まる。
そして時々、国家には到底設計できなかったものを生み出す。
国家の仕事は、船を作ることではない。
港を守ることである。
