Strategy Paper #004
AIについて語ることは難しい。
創作の現場には、長い時間をかけて技術を磨き、作品をつくってきた人たちがいる。その営みへの敬意を欠いたまま、「AIでもっと安く、速くつくれる」と語ることには、私は慎重でありたい。
AIによる創作を積極的に推奨したいわけでもない。
使いたい人が使えばいいし、使いたくない人は使わなくていい。
ただ、AIをはじめとする技術の変化によって、エンターテインメントを取り巻く環境に、これまでにはなかった選択肢が生まれつつある。
そのことには、少し期待している。
これまでとは違う「つくり方」が生まれている
Kevin Geigerは『AI-Native Animation: A New Business Paradigm』の中で、既存の制作工程をAIで効率化する「AI-Assisted」と、制作や事業の仕組みそのものを組み直す「AI-Native」を区別している。
参考:Kevin Geiger「AI-Native Animation: A New Business Paradigm」|Animation World Network
そこで描かれている変化は興味深い。
大人数の専門職が工程を分担する人月型制作から、少人数とAI、アセット、ワークフローなどを組み合わせるシステム型制作へ。
一本の映画やシリーズを完成させる発想から、キャラクター、世界観、物語のルール、アセットなどを、さまざまな作品を生み出せるIPの基盤として捉える発想へ。
本編をつくって終わるのではなく、ショート動画、SNS、ゲーム、商品、体験などへ展開し、IPそのものが継続的に動くエコシステムへ。
一本の大作に大きく賭けるだけではなく、複数のアイデアを試し、育ったものを大きくしていくポートフォリオ型の創作へ。
流通も、大きな配給網に乗せてもらうだけではない。自ら発信し、観客とつながり、そこから大きなプラットフォームへ広げていくDirect-to-Audienceという道がある。
収益化も、作品を公開して一度大きく回収するだけでなく、映像、広告、会員、商品、ゲーム、デジタルコンテンツ、体験など、さまざまな形で継続的に価値を還元してもらうことができる。
つまり変わり得るのは、「どうつくるか」だけではない。
どう届けるか。どう楽しんでもらうか。そして、生まれた価値をどう創作者へ還元し、次の創作につなげるか。
その道そのものが増えていく可能性がある。
だからといって、今までの創作がなくなるわけではない
ここは、私はGeigerとは少し距離を置いて考えたい。
新しい仕組みが生まれたからといって、これまでの制作方法が「古いもの」になるわけではない。
一枚の絵、一つの動き、一つの台詞に時間をかける。
監督、脚本家、アニメーター、声優、音楽家、プロデューサーをはじめ、多くの人が一つの作品に向き合う。
そこから生まれるものには、その方法だからこそ生まれる価値がある。
今日の日本のアニメ、漫画、ゲームの豊かさも、そうした仕事を積み重ねてきた人たちの上にある。
新しい技術は、その価値を否定するものではない。
一つの道が消えるのではなく、道が増える
私が面白いと思うのは、むしろこちらだ。
これまでの創作に加えて、もう一つ、また一つと道が増えていく。
これまでなら、資金も人も集められず、頭の中だけで終わっていた世界を、一人や数人で形にできるかもしれない。
企画が通らなかったアイデアが、ショート動画やゲームやSNSから始まり、後から大きなIPへ育つかもしれない。
大きな配給網を持たないクリエイターが、自分で観客と出会えるかもしれない。
小さなコミュニティに深く愛される作品が、それだけで持続可能な創作になるかもしれない。
一方で、AIを使わず、人間が時間と手間をかけてつくること自体が、その作品の大切な個性になることもあるだろう。
大作があっていい。小さな作品があっていい。AIを使ってもいいし、使わなくてもいい。映像から始まっても、漫画からでも、ゲームからでも、SNSの片隅からでもいい。
一つの道が別の道を駆逐するのではなく、選択肢そのものが増えていく。
私は、そんな変化を歓迎したい。
八百万の創作があっていい
考えてみれば、それは日本らしいことなのかもしれない。
日本には昔から「八百万の神々」という考え方がある。
山にも、川にも、木にも、岩にも、家にも、道具にも、さまざまなものに神を見出してきた。
これほど豊かなキャラクターと物語の世界を、昔の日本人は自分たちの頭の中から生み出していた。
一つの絶対的な存在だけが世界を支配するのではなく、無数の存在が、それぞれの姿のまま同じ世界にいていい。
そこには、日本の創作文化にも通じる感覚があるように思う。
だったら、創作だって八百万でいい。
八百万の創作があっていい。
八百万の届け方があっていい。
そして、八百万の実りがあっていい。
大企業が大きな作品を世界へ届ける道がある。
一人のクリエイターが、小さなコミュニティと直接つながって生きていく道もある。
映画館で何百万人に観てもらう作品がある。
SNSで偶然出会った小さなキャラクターが、誰か一人にとって大切な存在になることもある。
その価値への対価も、興行収入だけでなく、商品かもしれない。会員かもしれない。ゲームかもしれない。イベントかもしれない。まだ名前のついていない方法だって、これから生まれるかもしれない。
創作の形がたくさんあるなら、届け方も、そこから生まれた価値をつくり手へ還元する方法も、たくさんあっていい。
多様なものが、多様なまま存在できる。
それこそ、日本の風土なのではないだろうか。
つくれるものが増えるほど、人間が問われる
そして、ここに一つ面白い逆説がある。
技術によって「つくれるもの」が増えるほど、人間の役割が小さくなるとは限らない。
Geiger自身も、コンテンツを大量につくれる時代には、量や映像品質だけでは差別化できず、identity、authenticity、trustが重要になると指摘している。
何をつくりたいのか。なぜ、それをつくるのか。何を美しいと思うのか。何を面白いと思うのか。どんな世界を、誰に届けたいのか。
技術が高度になるほど、最後に残るのは、そんな極めて人間的な問いなのかもしれない。
AIがその答えを決める必要はない。
むしろ、決めてはいけないのだと思う。
創作の主語を、人間から手放さない
私は、AIによる創作を推奨したいわけではない。
反対に、AIのない創作だけを守るべきだとも思わない。
新しい道具が生まれ、新しい制作方法が生まれ、新しい届け方や価値の還元方法が生まれる。
それもまた、創作を取り巻く環境の変化の一つだ。
大切なのは、その変化によって選択肢を狭めるのではなく、むしろ増やしていくことではないだろうか。
プロも、アマチュアも。大企業も、一人のクリエイターも。新しい技術を使う人も、使わない人も。
それぞれが、それぞれの方法で世界をつくり、それぞれの方法で誰かに届ければいい。
道具が変わっても、創作の主語を人間から手放さない。
そのうえで、八百万の創作と、八百万の届け方と、八百万の実りが共存する。
そんな未来なら、日本のエンターテインメントは今よりもっと広く、もっと多様で、もっと自由になれるのではないだろうか。
